6、ミニ阿弥陀仏を作って安心しようとする人々



この図は何を表しているかというと、私が日・米・ブラジルで出会った浄土真宗の信者の様子である。全てとは言わないが、「阿弥陀仏の救いが有難い」という人の話をよく聞くと、こんな状態になっていることが多いように感じた。
 
頭の中に小さな阿弥陀仏を作り、その阿弥陀仏に「必ず救うぞ」と言わせて、自分で安心しているのである。さらにその喜び(?)を、他人にまで広げようとする人もいる。
 
頭の中で阿弥陀仏を作り上げるのは自力信心ですよ、1種の自己洗脳ですよ、それは親鸞聖人の教えとは違いますよと伝えるのだが・・・、「私の信心は本物だ」と強烈に思い込んでいる人には、何を言っても聞いてもらえない。
 
 
しかし中には、話が通じそうな人もいる。
 
そこで私は「頭の中で阿弥陀仏を作っているのは他力信心ではありませんよ」と、この図を使って説明することがある。
すると、自分自身にかすかな違和感を抱いていた人は、正直に「私はこの状態なのかもしれません」と告白してくれる。
 
ただし、その人が積極的な聞法を開始するかというと、必ずしもそうではない。自分の信心が間違っていることに気付きながらも、でも凡夫だからこんなものだろう、と誤魔化してしまう場合が多いようだ。
 
 
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『蓮如上人御一代記聞書』に以下の文章がある。

”蓮如上人の御時、こころざしの衆も御前に多く候ふとき、「このうちに信を獲たる者幾人あるべきぞ、一人か二人か有るべきか」と御掟候ふとき、おのおの肝をつぶし候ふと、申され候ふよしに候”

獲信者が一人か二人でもいるかと問われ、肝をつぶした者が多かったと書いてある。他力信心を得よと言い続けた蓮如上人のところに参詣した人々ですら、未信者が多かったということだろう。
 
 
蓮如上人の教団は、現在のような葬式や法事に依存した教団ではなかった、と私は考えている。蓮如上人は他力信心を広めることを最も重要視していたはずである。
 
たとえば上人が大量の名号本尊を書き続けてくださったおかげで、仏壇を設置することが容易になった。また『六時礼讃』の勤行をやめ、親鸞聖人の教えが分かりやすくまとめられた『正信偈』に切り替えられたのもその一環であろう。
 
身近な本尊も朝夕の勤行も、一般人の聞法をやりやすくした。そして蓮如上人は『御文章』を通じて「他力信心を得ることの重要性」と何度も伝えておられる。
 
そのような理想の布教形態ですら獲信者が少なかったのならば、俗に「国に一人、郡に一人」と言われるように、そもそも獲信者というのは稀なものなのかもしれない。
 
 
(ただし疑蓋を外すのは阿弥陀仏なので、もしかしたら今後、大量の獲信者(たとえば100人とか)が突然生まれる、という可能性はある。)
 
 
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ところで「国に一人、郡に一人」と言われたら、人間の感覚からすれば、とても少ないように思う。
 
しかし浄土真宗は、凡夫が仏に成る教えである。一人でも凡夫が仏に成ったとしたら、それはあり得ないことである。本来ならば仏道修行を完遂してやっと仏に成るのだから、仏教的にいえば凡夫一人でも多すぎるのだ。
 
 
「なんと不思議なことに、凡夫が一人、仏に成るぞ」ということである。
 
 
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