4、視点の転換

さて、前ページの最後で「他力信心は人間の努力や工夫によって得られるのではない」と書きました。
 
では何の力によって獲信に至るのか? それは阿弥陀仏の力であり、浄土真宗ではこれを他力と呼びます。
 
図で説明すると、獲信する前、私は自分ががんばって獲信しようとしていました。




しかしいつまでたっても獲信できず、どの方向に走ればよいかも分からなくなりました。
 
そして獲信というのは、そのような「努力を重ねる→達成する」という種類のものではなかったのです。
 
いうなれば阿弥陀仏が私に働きかけ、私を動かし、私を浄土真宗に引っぱったということです。そして疑蓋(阿弥陀仏の誓いに対する疑い)も、阿弥陀仏が一瞬で取り去ってしまいました。
 

阿弥陀仏が引っぱっていた

こんなことを聞くと、「じゃあ一生懸命に法話を聞く必要も無いじゃないか」と考える人がいます。

しかしそうではないのです。
 
確かに、がんばって法話を聞けば獲信できるわけではありません。ですが、阿弥陀仏が人間の疑蓋を外すために、人間に働きかけて、一生懸命に法話を聞かせるようにする場合がある、ということです。
 
私自身でいえば、法話や念仏など嫌うような人間ですが、阿弥陀仏の力に引っぱられ、それこそ命がけで法話を聞いていたわけです。

しかしそれで思い知らされたのは、自分には一生懸命に法話を聞こうとする心など無い、ということでした。真剣になろうとすればするほど、法話の最中に別のことを考えてしまう自分がいたのです。 

本当は自分が死ぬなどと思っていないのに、子供の頃から死に怯え、死の問題を解決しようとしてきた私。
 
実はそれは全て、阿弥陀仏が引っぱっていただけなのでした。 


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