2018-11-14

大乗非仏説は他力信心の障害にならない

ときどき「大乗非仏説」という批判を目にする。大乗仏教はお釈迦さまの直説ではない、後世の仏弟子が創作したものだ、という批判である。これは確かに一理あるように思えるし、一定の支持を得ているようだ。

 
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しかし大乗非仏説は、他力信心にとって、ものの数に入らない。
 

 
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そもそも、もしもお釈迦さまが目の前に現れて「すまないが『大無量寿経』に説いてある阿弥陀仏の救い、あれは全部デタラメなのだ」とおっしゃったとしても、私は何も困らない。
 
まあ感情的には動揺するだろうが、私の気持ちが動揺しようがしまいが、他力信心には関係が無い。
 
なぜなら「仏願の生起本末を疑い無く聞ける」という点においては、変わりようが無いからだ。
 
逆に言えば、いくら私が「疑蓋(本願疑惑心)を取り戻したい」と思ったとしても、それは不可能なのである。つまり獲信者が未信に戻ることはできない、ということだ。たとえお釈迦さまご自身が、私の目の前で大乗仏教を否定したとしても、だ。
 
 
大乗非仏説を代表とするいかなる批判も、他力信心の障害にはならないのである。

 

2018-11-13

教義理解は往生の役に立たない

『教行信証』を1ページも理解できなくても、疑蓋さえ外れていれば、その人は仏になる。

逆に『教行信証』を全て理解して一言一句まで暗記していても、また「あなたは素晴らしい門徒だ」「優れた僧侶だ」と他人からほめられても、疑蓋が外れていなければ未信である。


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一文不知の者すら救うのが阿弥陀仏である。文字が読めなかった妙好人・庄松は、経典を上下さかさまに持ちながら「庄松助けるぞ、庄松助けるぞ」と読んだ。このエピソードから、他力信心と教義理解が本質的に違うものだと分かるであろう。

「往生するためには聖教を理解するのが必要だ」という主張は、学解往生(がくげおうじょう。異安心の一種)である。


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教義理解と他力信心は別物。いずれ滅びゆく脳みそにいくら教義を詰め込んでも、往生の役には立たない。
 

2018-11-12

死後の問題を無視する人々

インターネットの普及で、世界中の災害や事件がすぐ分かるようになった。

日本では地震や水害が話題になるし、ブラジルでは泥棒や強盗が多い。サンパウロでは「泥棒に遭った」という人は珍しくなく、私も物を盗まれたことがある。

 
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子供のときから不思議に思っていたのが、死ぬ可能性があるような災難に遭ったとしてもなぜか、死後の問題について考える人はとてもとても少ないことだ。
 
死ねばどうなるのか、科学的には何も分かっていない。エジソンや天才ニコラ・テスラも死後について研究していたが、いまだに死後が有るのか無いのかすら不明である。「死ねば無になる」「死ねば自然に還る」という人々もいるが、結局のところハッキリしたものは一つも無い。

   
そんな何も分からない暗闇に突っ込んでいくのが「死ぬ」ということだ。そのため、死後は不安要素のカタマリである、と私は子供の頃から考えていた。怖くないわけがない。
 
しかし私の地元には、死後の問題を解決しようとしている人はいなかった。そんな人には一人も会ったことが無かった。大人たちに質問をくり返したが、答えを知っている人はいなかった。
 
中には私の不安を和らげるためか「そんなに生き急ぐな」と言ってくれる人もあったが、私は生き急いでいたわけではない。

 
なぜなら死は、老人にも若者にも平等に訪れるからだ。自分がいつ死ぬのか、全く予測できないのだ。ならば当然、死後の問題の解決は早ければ早いほどよい、ということになる。

 
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私は高校を卒業するまでは、死後の問題に取組んでいる人に出会ったことがなかったので、自分が最も人生を真面目に考えていると思っていた。
 
しかし大学に入ってから妙好人の本を読み、同じような人がいることを知った。後生の解決を求めた人々の記録である。
 
私が阿弥陀仏の本願を聞き開かせてもらったのは20代の半ばなので、それまでは正直、精神的にしんどかった。娑婆に生活しているだけでも苦しみはやってくるのに「いつ死ぬか、獲信に間に合うのか」と焦っていたからだ。
 
のほほんと大学生活を謳歌している同級生がうらやましいと思ったこともあるし、「なぜ自分は世間の人と同じように死後の問題を無視して生きられないのか」と自分を恨んだこともある。
 
しかし月日は流れ、聞法には行き詰る一方だった。
 
そして最終的に「自分には獲信は無理だ」とあきらめてから、私は阿弥陀仏に出会った。
 

 
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阿弥陀仏に救われ、私は違う視点を持つことになった。
 
死後の問題を解決しようとしたのは、私ではなかった。そして死後の問題という小さなものではなく「六道輪廻の解決」という、より大きな宝を頂いた。
 
こうして私は、なぜ人々が死後の問題を解決しようとしないのか、よく分かるようになった。
 
なぜなら死後の問題を解決しようとしない人間というのは、ほかでもない、私自身だからだ。煩悩に振り回されて死んでいくだけの存在、それが私である。


死後の問題を解決しようなんて殊勝な心は、これっぽっちも持っていない。
 

 
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私は「浄土に生まれ仏になること」を喜ばずにおれない。
 
成仏を喜ぶ気持ちなど生まれないはずの自分だが、そのことを思うと、さらに喜ばずにおれない。成仏もそれを喜ぶ気持ちも、全て頂きものである。
 
そして阿弥陀仏は今日も、私の疑蓋を取り除いたのと同じように、最善を尽くして人々の疑蓋を取り除いている、と思う。
 


2018-11-11

Youtubeの法話動画


 私は法話を撮影してYoutubeにアップしている。妻の久保光雲の法話だが、これまで150本ほど作ってきた。

https://www.youtube.com/user/yukoyuko18gan

趣味でも仕事でもそうだが、こだわればこだわるほど、知らなかったことや予測しなかったことに出会う。


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撮影を続けたおかげで、カメラや録音機器などの使い方を覚え、より見やすい動画の作り方も学んだ。動画編集に大量の時間が必要だということも分かった。(冒頭の画像は動画編集ソフトの画面)

またトラブルも時々あり、カメラの焦点が合ってなくて映像がぼけた、録音機が作動しなかった、会場が暗すぎて撮影が困難だった、・・・などなど。

そんな時は焦るのだが、乗り越えてしまえば良い思い出となる。


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なにより「動画を見ました」といって直接訪ねてきてくれる人が出てきた。

阿弥陀仏とのご縁が深い人、具体的には後生の一大事ひとつを聞きたいという聞法者、そういう人に法を伝えたいと思ってブラジルにやってきたのだ。

ブラジルにも阿弥陀仏に引っぱられる人はいるはずと考えて、地道に動画を作り続けてきた。


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チャンネル登録者は少ないが、その数字はあまり問題ではない。 実際に聞法する人が出てくることが最も重要である。


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「Youtubeでご法話を見てますよ」と声をかけられることも増えた。

ぜひ仏願の生起本末を疑い無く聞ける身になってほしい、と願わずにおれない。

動画作りはとにかく時間がかかるが、今後もうしばらく続けてみようと思う。


2018-11-10

ミニ阿弥陀仏を作って安心しようとする人々



この図は何を表しているかというと、私が日・米・ブラジルで出会った浄土真宗の信者の様子である。全てとは言わないが、「阿弥陀仏の救いが有難い」という人の話をよく聞くと、こんな状態になっていることが多いように感じた。
 
頭の中に小さな阿弥陀仏を作り、その阿弥陀仏に「必ず救うぞ」と言わせて、自分で安心しているのである。さらにその喜び(?)を、他人にまで広げようとする人もいる。
 
頭の中で阿弥陀仏を作り上げるのは自力信心ですよ、1種の自己洗脳ですよ、それは親鸞聖人の教えとは違いますよと伝えるのだが・・・、「私の信心は本物だ」と強烈に思い込んでいる人には、何を言っても聞いてもらえない。
 
 
しかし中には、話が通じそうな人もいる。
 
そこで私は「頭の中で阿弥陀仏を作っているのは他力信心ではありませんよ」と、この図を使って説明することがある。
すると、自分自身にかすかな違和感を抱いていた人は、正直に「私はこの状態なのかもしれません」と告白してくれる。
 
ただし、その人が積極的な聞法を開始するかというと、必ずしもそうではない。自分の信心が間違っていることに気付きながらも、でも凡夫だからこんなものだろう、と誤魔化してしまう場合が多いようだ。
 
 
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『蓮如上人御一代記聞書』に以下の文章がある。

”蓮如上人の御時、こころざしの衆も御前に多く候ふとき、「このうちに信を獲たる者幾人あるべきぞ、一人か二人か有るべきか」と御掟候ふとき、おのおの肝をつぶし候ふと、申され候ふよしに候”

獲信者が一人か二人でもいるかと問われ、肝をつぶした者が多かったと書いてある。他力信心を得よと言い続けた蓮如上人のところに参詣した人々ですら、未信者が多かったということだろう。
 
 
蓮如上人の教団は、現在のような葬式や法事に依存した教団ではなかった、と私は考えている。蓮如上人は他力信心を広めることを最も重要視していたはずである。
 
たとえば上人が大量の名号本尊を書き続けてくださったおかげで、仏壇を設置することが容易になった。また『六時礼讃』の勤行をやめ、親鸞聖人の教えが分かりやすくまとめられた『正信偈』に切り替えられたのもその一環であろう。
 
身近な本尊も朝夕の勤行も、一般人の聞法をやりやすくした。そして蓮如上人は『御文章』を通じて「他力信心を得ることの重要性」と何度も伝えておられる。
 
そのような理想の布教形態ですら獲信者が少なかったのならば、俗に「国に一人、郡に一人」と言われるように、そもそも獲信者というのは稀なものなのかもしれない。
 
 
(ただし疑蓋を外すのは阿弥陀仏なので、もしかしたら今後、大量の獲信者(たとえば100人とか)が突然生まれる、という可能性はある。)
 
 
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ところで「国に一人、郡に一人」と言われたら、人間の感覚からすれば、とても少ないように思う。
 
しかし浄土真宗は、凡夫が仏に成る教えである。一人でも凡夫が仏に成ったとしたら、それはあり得ないことである。本来ならば仏道修行を完遂してやっと仏に成るのだから、仏教的にいえば凡夫一人でも多すぎるのだ。
 
 
「なんと不思議なことに、凡夫が一人、仏に成るぞ」ということである。