最初に注目したのは、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)というドイツの哲学者でした。
彼の考え方で興味深かったのが、
・全ての出来事は何度もくり返されるものである(永劫回帰)
・そこに意味を見出せる者になるべき(超人)
この2点でした。
たしかにそのような超人になれれば、人生に意味を見出せるでしょう。素晴らしい理論だと思いました。
しかしいくら理論が優れていても、実践できるかどうかはまた別です。
ニーチェ自身は晩年に発狂してしまい、精神病院に入れられて55歳で死亡しています。
もしも彼自身が提唱する「超人」になれていたならば、ニーチェは発狂しなくて済んだのではないか? それに「永劫回帰」という考え方にしても、もしも死後に耐え難い苦痛が待っているとしたら、何度もそんな苦痛を味わいたくない。
そう考えた私は、とても自分は超人にはなれない、と思いました。
禅宗の見性(けんしょう)、浄土真宗の妙好人(みょうこうにん)
しばらく西洋哲学について調べましたが、私が死の問題を解決できそうなものは見つけられませんでした。
その後、大学時代に知ったのが禅宗と浄土真宗で、どちらも仏教の一派です。
仏教では厳しい修行によって悟りを開く、というのは聞いたことがありました。しかし実際に悟った人を見たこともなかったので「悟りというのも理論だけであって、一般人が実際に得られるものではないだろう」と考えていました。
しかし詳しく調べると、禅宗の高僧の残した言葉、そして浄土真宗の妙好人の記録には、心の底から驚かされるものがありました。
私がどうしても解決したかった死の問題に対して、彼らは答えを得ているようでした。
彼らはある精神的な変革を経て、死の問題すら障害とならない世界へ入っていました。それを禅宗では見性(けんしょう)といいます。浄土真宗では獲信(ぎゃくしん)とか他力信心を得るなどといいます。
先輩を探す
死の問題を解決するには、以下の2条件を満たす必要がある、と考えました。
・死後に対する不安が解決されている
・それが死ぬまで崩れない
ついでにいうならば、私のような凡人でも可能である、というのが大前提です。いくら理論が素晴らしくても、私が救われないのならば、絵に描いた餅と同じです。
禅宗ではまず、見性体験を得た人を探しました。先に問題を解決した先輩がいるならば、その人から直接話を聞くのが近道だ、と考えたからです。
ただし見性を得たかどうかは、他人の目からは分かりません。禅宗には昔から「野狐禅(やこぜん)」といって、正しい見性を得ていないのに、自分は見性体験を得たと思い込む人もいました。そのような人に引っかからないよう、慎重に指導者を選ぶ必要もありました。
内山興正という僧侶の著作を読んで、この人は信頼できると感じたのですが、残念なことにすでに亡くなっておられました。結果としては、見性体験を得た人を見つけることはできませんでした。
浄土真宗においては、妙好人のように獲信した人を探していました。
実をいうと、禅宗よりも浄土真宗の方に希望を抱いていました。なぜなら浄土真宗は一般人のための宗派だからです。
禅宗では宗教的才能に溢れた僧侶、たとえば一休さんのような人が見性を得ていました。しかし浄土真宗では、農民や大工や主婦といった人々の獲信の記録が残っていたのです。
一般人である妙好人が、死後の不安を解決している。ならば私にも死の解決ができるかもしれない、と思いました。
なお浄土真宗においては、死後に苦しい世界が待っていることを「後生の一大事(ごしょうのいちだいじ)」といいます。
その後、いくつか浄土真宗の寺院や集まりに参加し、お坊さんの法話を聞くようになりました。