2018-10-06

心得たは心得ぬ?

他力信心についてこんな言葉を聞いたことがあります。

『心得たと思うは心得ぬなり』なのだから、他力信心を得たという人こそ間違っているのだ

最初にこれを聞いたとき、私にはよく理解できませんでした。なぜなら妙好人たちも、浄土真宗を開いた親鸞聖人も、またその師の法然聖人も、みんな他力信心を得た方々だからです。獲信して阿弥陀仏の素晴らしさを伝えていかれた方々です。
 
なのになぜ「他力信心を得たという人こそ間違っている」と言えるのだろうか?
 
実はこの「心得たと思うは心得ぬなり」という言葉は、室町時代に浄土真宗を著しく広めたことで有名な蓮如上人のおっしゃったことです(『蓮如上人御一代記聞書』213)。
 
全文は以下です。


心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことの尊さよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり。


言葉の意味としては、
<「私は心得たぞ(自分の力で心得たぞ)」と主張する人は、心得た人とは言えない。「こんな自分を阿弥陀仏が救ってくださるとは、なんと尊いことか」と感謝・懺悔する人こそ、本当に阿弥陀仏の本願を心得た人なのだ>
ということです。
  
なので決して「他力信心を得たという人は間違っている」という意味ではありません。なぜなら蓮如上人ご自身が、「他力信心を得る」という表現を『御文章』の中でくり返し記しておられるからです。
 
その後しばらくして、他力信心を得ていない人が自分の気持ちを納得させるためによく使われる言葉だ、ということを知りました。(他にも『歎異抄』の第9条がよく使われることを知人の僧侶から教えてもらいました)
 
他力信心を得る(疑蓋が外される)ということは、現実に起こります。そしてそれは、本人と阿弥陀仏の関係においてのみ明確になります。
 
   *

なお 『教行信証』『御文章』『歎異抄』など浄土真宗の書物の言葉は尊いものですが、それらを自分の信心の土台とすることは間違っています。「あの本にこう書いてあったから、私の信心はきっと本物のはずだ」という、そんな曖昧なものではないのです。
 
あくまでも獲信とは疑蓋が外されることであり、一度疑蓋が外されてしまえば、疑いが戻ってくることはありません。
 
これを極端な例でいえば、たとえ目の前にお釈迦さまや親鸞聖人や妙好人が現れて「浄土真宗の教えは全部ウソなのだ」とおっしゃったとしても、全く影響を受けないということです。なぜなら下の図のように、獲信者は阿弥陀仏と直接つながっているからです。
 


本当に他力信心を得ていれば、つまり疑蓋が外されていれば、力んで「心得たは心得ぬなのだ」などと主張する必要はありません。自分一人で喜べる教えなのです。


現在の私


ここまで私の獲信について書いてきました。

私はその後、縁があって僧籍を取得し、現在はブラジルで生活しております。疑蓋が外されてから12年ほどたちましたが、阿弥陀仏に抱かれて安心の生活を送らせてもらっています。何よりも「いつ死んでも安心」というのが大きく、人生で出会うべきものに出会えたので、満足しながらいつでも死んでいける日々です。
 
次ページからは、私が浄土真宗について考えたコラムを書いていきます。どうぞお楽しみください。