『教行信証』を1ページも理解できなくても、疑蓋さえ外れていれば、その人は仏になる。
逆に『教行信証』を全て理解して一言一句まで暗記していても、また「あなたは素晴らしい門徒だ」「優れた僧侶だ」と他人からほめられても、疑蓋が外れていなければ未信である。
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一文不知の者すら救うのが阿弥陀仏である。文字が読めなかった妙好人・庄松は、経典を上下さかさまに持ちながら「庄松助けるぞ、庄松助けるぞ」と読んだ。このエピソードから、他力信心と教義理解が本質的に違うものだと分かるであろう。
「往生するためには聖教を理解するのが必要だ」という主張は、学解往生(がくげおうじょう。異安心の一種)である。
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教義理解と他力信心は別物。いずれ滅びゆく脳みそにいくら教義を詰め込んでも、往生の役には立たない。