2018-11-14

大乗非仏説は他力信心の障害にならない

ときどき「大乗非仏説」という批判を目にする。大乗仏教はお釈迦さまの直説ではない、後世の仏弟子が創作したものだ、という批判である。これは確かに一理あるように思えるし、一定の支持を得ているようだ。

 
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しかし大乗非仏説は、他力信心にとって、ものの数に入らない。
 

 
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そもそも、もしもお釈迦さまが目の前に現れて「すまないが『大無量寿経』に説いてある阿弥陀仏の救い、あれは全部デタラメなのだ」とおっしゃったとしても、私は何も困らない。
 
まあ感情的には動揺するだろうが、私の気持ちが動揺しようがしまいが、他力信心には関係が無い。
 
なぜなら「仏願の生起本末を疑い無く聞ける」という点においては、変わりようが無いからだ。
 
逆に言えば、いくら私が「疑蓋(本願疑惑心)を取り戻したい」と思ったとしても、それは不可能なのである。つまり獲信者が未信に戻ることはできない、ということだ。たとえお釈迦さまご自身が、私の目の前で大乗仏教を否定したとしても、だ。
 
 
大乗非仏説を代表とするいかなる批判も、他力信心の障害にはならないのである。